由緒・沿革
海南神社
御祭神
- 藤原資盈公(主祭神)
- 盈渡姫
- 地主大神
相殿に
- 天照大御神
- 豊受気比売大神
- 速須佐之男大神
- 菅原道真公
- 天之鳥船命
- 筌龍弁財天
藤原資盈公の経歴
- 京都の貴族の出身である。
- 天児屋根命の苗裔である。
- 九州太宰少弐(大宰府の次官)藤原広嗣の五代の孫に当る。
- 第56代・清和天皇の時代、皇位継承争いに関わる大納言・伴善男の陰謀に荷担しなかった為、筑紫の配所に左遷されることとなる。
- 筑紫の配所に航する途中、暴風に遭遇して、西暦864年11月1日、資盈公と2人の息子、郎党53人を乗せた船は三浦に着岸した。
(その際に資盈公の長男の船は房総半島に着岸し、後に鉈切大明神に祀られたと伝えられる。) - 資盈公は三浦着岸後、三浦の土地の長に推載され、房総の海賊の平定を行った。
- また資盈公は郷民を教化し(特に漁業)、文化の礎を築くと同時に福祉を充実させた。
- これらの功績から郷民の尊崇の念も篤く、西暦866 年に公が歿するとその亡骸は花暮海岸に沈められ、祠が建立され祀られた。
沿革
西暦 | 元号 | 由緒・沿革 |
---|---|---|
866年 | 貞観八年 | 藤原資盈公が歿した後、郷民が花暮海岸に祠を建立して祀る。 |
982年 | 天元五年 | その祠を本宮とし、社殿を造営し、三浦一郡の総社となる。 |
1653年3月 | 承応二年 | 正一位(吉田家神道の宗源宣旨の一番高い位)に認定される。 |
1719年 | 享保四年 | 三浦半島の総鎮守となる。 |
1873年 | 明治六年 | 旧社格制度の郷社(民社で二番目に高い位)となる。 |
1907年 | 明治四〇年 | 神饌幣帛料共進神社に指定される。 (天皇の勅令により県令をもって県知事が、新年祭、新嘗祭、例祭に神饌幣帛料を共進された神社) |